「同病相憐れむ」
我々は、家族や友人など大事な人が病に襲われたりすると、ただただ平癒を神仏に祈ります。しかしふと病院で自分の周りを見ると、いかに多の人が、同じ病気で苦しんでいるかに気付きます。特に自分よりも若い青年や、子供が治療を待っている光景を目にすると、心が張り裂ける思いがします。本人や家族にお気持ちはいかばかりかと。その時、自分の家族だけの平癒を願っていた自分の心の狭さを感じたりします。
「同病相憐れむ」という言葉がありますが、人間は一つの苦悩を体験すると、同じ苦悩を持つ人の心中を自分のこととして観察できるようになるのです。
これは、他人を思いやるとか相手の立場になるといった心の動きではなく、他と自分との境が取れ、「他者の苦悩」がそのまま「自分の苦悩」となり、自然に相手と同化した自分に気付くということです。東日本大震災で被災した人々の苦しみが、自分の苦しみになり、居ても立っても居られなくなる。誰かが鴨居に頭をぶつけると、見ている自分も思わず「痛い」と叫ぶように。
この心を「慈」といいます。原語では「マイトリー」、友達という意味です。そしてその心は、その人の苦しみを抜いてあげたいという気持ちに昇華していきます。その心を「悲」と言います。原語では「カルナ」苦しみを抜くという意味です。つまり慈悲とは、苦しんでいる他の人を、自分の友人として同情し、その苦しみを抜いてあげようとする心なのです。
更にその心は、自己を抜け出して相手の中に自分が入り、自分の中に相手が入る「入我我入」という相互乗り入れによって、相手の為だと思ったことが実は自分の為だったと気づく。他を救うことが自分の苦しみ悲しみを抜いてくれることであったと気付く。これを「智慧」というのです。つまり、この世は全て縁という関係性で成り立って何一つ独立して存在するものはない。自と他は不二で一つであることを知る智慧なのです。
自分の家族を事故や病気で亡くした人が、自分の苦しんだ経験を生かして同じように苦しむ人々の力になりたいとボランティアに専念するものも、自分の不安と孤独が解消されるという事なのです。故郷の母親に楽をさせたいと、努力し耐え忍んだことが、実は自分の為だったと気づくのです。
人間は自分の為ではなく他の為にと願った瞬間、忍耐と力がでるのです。「女は弱し、されど母は強し」。子供のため、家族のため、社員のため、会社のため、国のため。人間は自分勝手の様に見えますが、他のためにと願う時、本来の機能が発揮される。
これらは、我々の内に埋め込まれた「慈悲」と「智慧」という機能の働きによるものなのです。その「慈悲」と「智慧」に気付きなさい、引き出しなさいと説いているのが「観音経」と「般若心経」なのです。