「遇斯光(ぐしこう)」
最近、通夜・葬儀にお伺いしますと、ほとんどが家族葬です。
参列者も多い方で二十~三十人、少ない方では数人の場合もあります。
昔では考えられないことで、そのたびに少子高齢化の到来を実感いたします。
葬儀会社の方に聞きますと、これは全国的な傾向で、なかには亡くなると火葬場へ直行して、通夜も葬儀もせず荼毘に付し、そのままお骨を納骨堂に納める方も増えているそうです。また納骨をせず海や山に散骨する方や、樹木葬を希望する方もあり、葬儀の方法も千差万別になってきています。
ここで今一度、葬儀の意味を考えてみたいと思います。
法然上人は『逆修説法』という筆書で、人が死に直面したとき、三つの執着心「三種の愛心」が起きると示している。
一つ目は「境界愛」、この世に残していく妻子・親族・家屋・財産等への執着。
二つ目は「自体愛」、ただただ自分自身の身命への執着。
三つめは「当生愛」、死後の自分はどのようになのか、自分の生はどうなるのかという執着。
しかし、「それら心に対ししかるに阿弥陀如来大光明を放って人の前に現れたまう時、未曽有の事なる故に帰依の心の外には他念なし。しかれば三種の愛心を亡じてさらに起こることなし」と説いている。
つまり、人が死に直面して「三種の愛心」が起こった時、阿弥陀如来は光を放って執着と死の恐怖を取り除いてくれる。
何も恐れることが無くなるという。
『無量寿経』ではこの光のことを、「遇斯光(ぐしこう)」と言い、その功徳について「衆生あってこの光に遇うものは、貪・嗔・痴の三垢も消滅し身も意も柔軟に歓喜踊躍して善心生ず」と説く。
この光に遇うから「遇斯光」という。