田嶋山九品院は、法然上人の教えを守る浄土宗のお寺です。
徳川家康の命令で小田原から移転してきた田嶋山快楽院誓願寺の塔中として1599年(慶長4年)に神田須田町に開創されました。
開山は本蓮社正誉上人秀覚大和尚、開基は塙直安道閑入道でした。
塙直安は、関ヶ原の合戦で徳川方について活躍した武将でしたが、晩年は江戸に住んで小児科医になりました。
その子孫も、江戸城内の医師として歴代の将軍に仕え、代々の葬地は九品院です。
本坊誓願寺は当初神田白銀町にありましたが、幕府の市街地整備や、明暦の大火などのために、神田須田町、浅草へと移転を繰り返します。九品院も誓願寺と共に同じ道を歩みました。
誓願寺の各塔中は有力な外護を持ちました。九品院は、菓子御用達の井上家の宿坊となっていましたが、他に、播磨屋新右衛門からもひとかたならぬ外護を受けていました。
播磨屋は両替商として財をなし、明治の金融恐慌を迎えるまで、銀行業を行った豪商です。
明治維新を迎えると、神仏判然令の公布、それに伴って起こった廃仏棄釈運動などの試練に遇い、各塔中は独自に存続の道を切り開かざるを得なくなります。
そして、1923年(大正12年)の関東大震災を契機として、本坊であった誓願寺とも袂を分かち、260年以上の月日を過ごした浅草の地をあとにして、練馬の現在地に他の十ヶ寺と共に移転。
それから100年近くの時が経っています。この間、33代に至る歴代住職の営々たる努力と、九品院を支え続けた檀信徒と縁を結びながら今日に法灯をつなぎ、歴史を刻んできたのです。
そして2016年(平成28年)、本堂客殿庫裏新築工事が落慶。本尊である阿弥陀如来のもとに人々が集い、心のよりどころとなる寺院をめざし、皆様と共に歩んで参ります。
ある年の秋、ある時間に決まって浅草広小路にある「尾張屋」という蕎麦屋に一人のお坊さんが来るようになった。お坊さんは、食べ終わると合掌をして丁寧にお礼を言って出て行く。
それが毎日のように続いた。
亭主は、「あの奥ゆかしい容貌、穏やかな物腰はただのお坊さんではあるまい。いったいどちらのお寺の和尚さんだろう」と思い、ある日お坊さんの後をつけていった。お坊さんは、誓願寺の総門を通って二棟目にある西慶院の地蔵堂の前で、すっと消えてしまった。亭主は不思議に思って店に帰る。その夜、亭主の夢枕にお坊さんが立って、「私は西慶院の地蔵である。日頃お前から受けた蕎麦の供養に報いて、一家の人々を悪疫から守ってあげよう」そう言って姿を消した。
それ以来、蕎麦屋の亭主は、西慶院の地蔵尊に蕎麦を供え供養した。
その後、天保8年(1837年)4月、全国に疫病が流行した。人々が死んでいく中で、尾張屋の一家だけは皆疫病にかからず無事だった。
このことがあってから、西慶院の地蔵尊の話が江戸市中に広がって、「蕎麦喰地蔵尊」として人々の信仰を集めるようになった。